「ネコと花壇でかくれんぼ」.pdf
花壇で楽しそうにかくれんぼをする4匹の猫の塗り絵です。
今週は猫ちゃんウィークでした。きゅーっと気持ちが一点に集まって、流れ出すように8つの塗り絵ができました。
こういうときはあまり考えたりしていなくて、自分の中にある記憶や経験のストックから必要なものが自然に出てくる感じです。
絵というものは「勢い」みたいなものが大事で、細部に目がいきすぎると完結させるのに必要な判断力が足りなくなる気がします。
逆になんというかパワーのようなものがあれば、細かい部分を引き連れて全体でひとつのカタマリになるような存在感とまとまりが生まれます。
たがが塗り絵になんと大げさな、という感じもしますが、作品を作られる方や指導をする方には伝わるのではないかと思います。高名な芸術家やアーティストの作品だけの話ではなく、子どもや生徒、施設利用者の方々のつくりだすモノにも、まったく同じことがあてはまります。
「生命力の発露」だと思うんですね。ひとことで言うと。
歌や踊りはきっと太古の昔の、人間が人間としてあり始めたときからすでに、「なんの役にもたたないけれど(おなかが満たされるわけではないという意味で)必要な何か」であったと思います。
そして「描く」という行為も、歌舞音曲に並ぶ何かであったのではないかと。ラスコー壁画の例をみるまでもなく、壁や地面に棒っきれや石で何やかやと描きつける(私のようなそしてあなたのような)誰かが、きっといたのだろうなあと思うのです。
もちろん「描く」は、集団としての記憶を記録にするために、だんだんと文字などを「書く」に進んでいったのだろうと推測されます。そこらへんの土と水をぐちゃぐちゃこねて何かヘンテコなものを作ることも、食器や住居など生活に必要なものを造る技術につながっていったのでしょう。
でもやはり始めはきっと、「遊びありき」だったのだろうと想像します。
なんだか話が大きくなってしまいましたが、わたしの仕事は、「生命力の具現化」だとかなり思っています。8割、ん~、8割5分くらいは思ってます。そのための知識やテクニック的なことはすべて方便であって、そしてそれをなかだちとして、人と人とが関わり気持ちを寄せ合うことができる(、可能性がある)。その人がその人であることの存在を、形あるものとして取り出し留めておくことができる行為。アートというと焦点があいまいになってしまいますが、「つくること・形として表現すること」の、私にとっての意味はそうです。
(話はまたまたそれますが、大好きな写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンの晩年のインタビュー映像をみて気づいたことがありました。彼は何かを語るとき、最後にかならず「プフモワ」って言うんですね。英語でいうと「 for me 」。つまり「私にとっては、ね」って付け加えるんです。映像の字幕にはいちいち訳されてなかったけれど、いちいち言ってた。それがなんだか良いなあと思ってその後、なにか語るときは「私にとっては」って、まねして言うようになりました)。
話それまくりでなかなか戻ってこれませんが、何を言いたいかというと、この一週間(正確には3日間)でドドッと8枚描けまして、そのなかでも「こんなのよく描けたなあ」と思っているのが今日ご紹介している「ネコと花壇でかくれんぼ」です。題名も描きながら決まります。だからあとからちょっとヘンかなと思っても、もう変えたりはないですね~。
まんなかの、上から見下ろしたネコちゃんの感じ。こういうのがするっと描けたことが、今回の収穫でありました。と今のところ思っています。プフモア。
この「ネコと花壇でかくれんぼ」をふくめ、花の中で遊ぶ猫ちゃんたちの塗り絵をまとめて、「ネコと花シリーズ」として公開しています。全部で10作品がダウンロードできます。あわせてお楽しみください。